「極力寄り添ってきたつもりだし、金本さんの力になりたいと思っているが、こうなってしまったのは力不足だったと思う。」
仮に、横浜地検から流出しているこの発言が実際に取調べの中で山口検事から述べられたものであるとすれば、この一言に現在の日本の取調べが抱える本質的な問題が凝縮されているように感じます。
近時、捜査機関における不適切な関係性や、権力関係を背景とした心理的影響力の行使が問題視される事例は、検察に対して厳しい目を向けられています。その文脈に照らしても、取調べにおける「関係性の作り方」は極めて慎重でなければなりません。
検察官の役割は、被疑者・被告人に寄り添うことでも、人生相談を行うことでもありません。
検察官に求められているのは、厳正公平、不偏不党の立場から、客観証拠に基づいて真実を解明し、有利・不利を問わず証拠を収集・評価することです。
ところが、「寄り添ってきた」「力になりたいと思っていた」「力不足だった」という発言は、検察官と被疑者との間に、本来想定されていない心理的な依存関係や情緒的な結びつきを前提としているようにも受け取られかねません。
これは「正しいことでしょうか」。
とりわけ問題となり得るのは、単なる「対話」ではなく、取調べという権力的非対称性の中で、あたかも個人的な信頼関係や情緒的な支援関係が存在するかのような構図が形成される点です。これは、事実認定の場において極めて慎重に排除されるべき要素です。
さらに、こうした「寄り添い」を強調する姿勢が、結果として被疑者側に「期待に応えなければならない」「関係を壊してはいけない」といった心理的同調圧力を生む危険性も否定できません。これは、供述の任意性を損ないかねない構造的問題です。
取調べにおいて最も避けなければならないのは、まさにこのような心理状態の誘発です。
だからこそ、世界的にも自白偏重の危険性が繰り返し指摘され、客観証拠中心主義への転換が進められてきました。
自白とは、本来、客観証拠によって裏付けられるべき結果であり、取調べ担当者との関係性や心理的働きかけによって導かれるべきものではありません。
にもかかわらず、「寄り添ってきた」「力になりたいと思っていた」という言葉が取調べの場で用いられたのであれば、それは客観的事実の解明ではなく、関係性を通じた説得や心理的誘導へと重心が移っている可能性を示唆します。
さらに問題なのは、この発言が黙秘に転じた後になされたとされている点です。
黙秘権は憲法上保障された重要な権利であり、その行使自体が不利益評価や心理的圧力の契機となってはなりません。
そのような状況で情緒的な言葉が投げ掛けられたのであれば、それは黙秘権行使後の心理的揺さぶりとして評価される余地があり、取調べの適正性の観点からも慎重な検証が必要です。
また、仮に本件に関する発言が、横浜地検の内部事情を知るとされる関係者から外部に寄せられているものであり、既に記者クラブを通じた公式な報道よりも早い速度で情報が流通しているとすれば、それ自体が組織統制および情報管理の観点から重大な問題を提起します。
事実関係の真偽とは別に、検察組織としては、情報の流出経路や内部ガバナンスの在り方について、早急な検証と説明責任が求められる局面にあると言わざるを得ません。
検察官が本当に「力になりたい」と考えるのであれば、最初に行うべきことは供述を引き出すことではありません。
関係者への十分な聴取、客観証拠の徹底的な収集、有利・不利を問わない事実認定の積み上げこそが本来の責務です。
具体的な質問も全くせずに、20日間の勾留中に起訴の判断をしないといけなくなってしまったのは東京国税局を信じた横浜地検の責任です。
客観証拠によって真実を構築することこそが、検察官に課された使命であり、それが結果として被疑者・被告人の利益にも社会全体の利益にもつながります。
刑事司法は、人間関係や心理的な同調によって成立するものではありません。
あくまで客観証拠によって支えられるべき制度です。
したがって、「寄り添ってきた」という言葉の適否よりも、「どのような証拠を収集し、どのような事実を検証し、どのような判断過程を経たのか」が厳格に問われるべきです。
それこそが、厳正公平、不偏不党、そして人権尊重という検察の基本理念に最も忠実な姿勢ではないでしょうか。
山口検事の発言は、
正しいと思いますか?



