用語の厳密性と、エンジェル税制をめぐる説明責任
刑事事件において、言葉は単なる表現ではない。
一つの用語の選択が、社会の受け止め方を大きく左右し、被疑者・被告人に対する印象形成にも影響を及ぼす。
だからこそ、公的機関が用いる言葉には、法律上・社会通念上の正確性が求められる。
横浜地検が記者クラブに公表した「キックバック」という言葉の一般的意味
一般に「キックバック」とは、契約や取引の見返りとして、本来の受領者から発注者や仲介者などへ利益が還流する行為を指すことが多い。
辞書や一般的な用法でも、「謝礼」「リベート」「見返り金」「裏金」といった文脈で説明されることが多く、秘密裏の利益還流を想起させる言葉である。
そのため、「キックバック」という表現が用いられると、多くの国民は、
- 裏金
- 秘密の利益供与
- 賄賂的な金銭授受
- 不透明な資金還流
といったイメージを抱く。
つまり、この言葉自体に強い社会的評価が伴っている。
一方、本件では、全く裏での金のやり取りはなく、公開された株式取得や再投資をキックバックと表現している
つまり、本件は、
- 契約書に基づいて行われ、
- 株式という対価を取得し、
- 会社法上の手続を経て株主となり、
- その後の資金が事業や投資へ充てられる
という形態である場合、そのような取引まで一般に「キックバック」という用語で表現することが適切かどうかは、慎重な検討を要する。
横浜地検はなぜ、キックバックという表現を記者クラブに広めたのか
もちろん、個別事案において、その実質が違法な利益還流であると認定されることはあり得る。
しかし、その場合でも重要なのは、「キックバック」という言葉そのものではなく、なぜ法的にそのように評価されるのかという具体的な理由である。
法律は「印象」ではなく「条文」で判断される
租税刑事事件では、最終的に問題となるのは、
どの法律に違反したのか。
どの課税要件を満たさなかったのか。
どの行為が虚偽であったのか。
どの事実によって故意が認定されるのか。
である。
「キックバックのように見える。」
「制度を悪用したように見える。」
という評価だけでは、刑事責任は成立しない。
法治国家では、違法性は条文と証拠によって示されなければならない。
エンジェル税制には何が書かれているのか
エンジェル税制は、スタートアップ投資を促進するために創設された政策税制である。
制度には、対象企業、投資時期、株式取得要件など、様々な適用要件が定められている。
一方で、少なくとも制度の公表資料を見る限りでは、
「エンジェル税制の対象となった出資金を再投資してはならない」という一般的な禁止規定は見当たらない。
だからこそ、仮に特定の事案について制度趣旨に反すると評価するのであれば、
- どの法令に基づくのか。
- どの制度要件を欠くのか。
- どの事実によって制度適用が否定されるのか。
これらを具体的に説明することが求められる。
「エンジェル」という名前が意味するもの
この制度の名称は「エンジェル税制」である。
「エンジェル投資家」とは、本来、創業間もない企業へリスクを取って資金を提供し、その成長を支える投資家を意味する。
制度の趣旨は、新しい挑戦への資金供給を促進することにある。
そのため、制度の利用者は、
行政が示した制度要件を満たし、
必要な確認手続を行い、
制度の適用を受けた以上、
その後の事業展開や再投資についても、法令上明確に禁止されていない限り、適法であると理解することは十分あり得る。
だからこそ、後になって「制度悪用」と評価するのであれば、行政にはその評価の法的根拠を丁寧に説明する責任がある。
問われるべきは説明責任である
制度を利用した納税者に説明責任があるように、制度を設計・運用し、必要に応じて刑事事件として立件する行政にも説明責任がある。
仮に、ある取引について制度趣旨に反すると判断したのであれば、
- その判断はどの法令、通達又は判例に基づくのか。
- 行政確認や制度運用との整合性はどのように整理されるのか。
- なぜその事案が、単なる税務上の解釈問題ではなく、刑事上の不正行為に当たると評価されるのか。
これらは、社会に対して説明されるべき重要な論点である。
法治国家では「違法だから悪用」である
本来の順序は極めて単純である。
法律がある。
法律違反がある。
証拠によって立証される。
その結果として違法と評価される。
この順序でなければならない。
「悪用だから違法」ではなく、
「違法だから悪用と評価される」のである。
その意味で、制度をめぐる議論では、印象的な表現よりも、具体的な法的根拠こそが最も重要である。
エンジェル税制は、国が創設した政策税制である。
その制度を利用した行為について、後から「制度悪用」と評価するのであれば、社会が求めるべきものは、印象論ではない。
どの法令に基づき、どの事実をもって、その評価に至ったのかという、具体的で検証可能な説明である。



